【なぜ海外移住したのか】01ー小林克也氏との出会いで世界を知る

現在、私、藤村正憲は国際自由人として活動をしています。

私は海外に出たことで今の自分があります。

海外に出られたことに感謝しています。

 

私が国境を意識しない生き方をお伝えすることによって、私が今の私になれた全てに恩返しをできるのではないかと思っています。

このシリーズでは、私が海外に移住するまでの取り組みや考え方を書いていきます。

 

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“海外=アメリカ”という思い込み!?

 

子供の頃の私には、海外=アメリカでした。

映画やテレビで英語を話す人は全てアメリカ人だと思っていました。

今と違って海外の情報は多くはありませんでした。

 

そんな私がアメリカ以外の国を初めて認識したのは、つくば万博です。

最初は親に連れて行かれましたが、今まで見たこともない文化や人たちに触れ、どんどん引き込まれていきました。

 

当時は1985年。小学校6年生です。

イギリス館に行ったときのことを今でも鮮明に覚えていますが、スタッフの英語を耳にしてなぜこの人たちはアメリカ人ではないのに英語を話しているのだろうと、今では考えられないような疑問をいだきました。

この人たちは英語を勉強したんだろうなと。

 

英語の本場のイギリス人を見てです。本当に笑ってしまいますよね。(苦笑)

でも、当時は本当に、外国=アメリカだったのです。

 

そして、洋楽にもはまり、小林克也が司会の「Best Hit USA」は毎週欠かさず見るようになりました。

私は野球が大好きですが、野球の助っ人で来る外国人プレーヤーもアメリカ人でした。

 

自然と英語を勉強するようになり、英会話教室に通っていました。

当然、アメリカ英語でした。やはり、私の中では、海外=アメリカというものが当たり前でした。

 

中学で初めての英語授業!期待とは裏腹に・・・

 

つくば万博で刺激を受け、すっかり外国という存在に魅せられました。

テレビや映画の世界だった外国人が目の前を歩いている感覚。非常に不思議でした。

 

しかし、あいかわらず、

外国=アメリカ
外国人=アメリカ人
外国語=英語

との認識で、英語を話す人たちは全員アメリカ人だと考えていました。

 

そして、そのまま中学に入学しました。中学での初めての英語の授業。

なんだかよくわからない高揚感の中、英語の授業を受けましたが、最初の授業から大きくつまずいてしまいました。

 

全くもって、おもしろくないのです。。。

心のどこかで小林克也を期待していたのかもしれません。

 

先生は英語で軽妙に会話を紡ぎ、ときには洋楽が流れ、会話練習をしていく授業だと思い込んでいました。

それが、発音記号などが出てきて、更に言うと発音記号を教える先生の発音が明らかにアメリカ人とは違っていて。。。

 

今であれば理解できますが、英語の先生はアメリカ人並みとはいかなくても、小林克也くらい話せるものだと思い込んでいました。

あまりにも退屈で退屈で、、、英語や海外への興味が一気に失せていってしまったのです。

 

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